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PIERRE BONNARD, TIME STANDS STILL
2011春夏 プレタポルテ コレクションの広告キャンペーンを見ると、カール ラガーフェルドがフランスの芸術家、ピエール ボナールの作品をみて頷く姿が想像できます。
ボナールは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したナビ派の画家。彼が描いた陽光に満ちあふれる情景や、輝くような色使い、屋内外の日常生活の描写は高く評価されています。
バスタブにヌードで横たわる姿、まどろむ女性、庭にしつらえたテーブルなど、カール ラガーフェルドは、色彩の存在感を際立たせる黒と白の大胆なセットの中にモデルを配しました。彼はボナールが好んだ手法を利用して、そこからもたらされる 効果を楽しんでいるようでした。ボナールと同じように輝きを追求し、色のアクセントが散りばめられたカール ラガーフェルドの写真には、あふれんばかりの光が降り注いでいます。
生い茂る自然の緑や物憂げな仕草がボナールの夢見心地な作品の世界をうまく捉え、時間が止まったかのような雰囲気を感じさせます。
(左)油彩画: ピエール ボナール作 「La terrasse à Vernonnet」(1939年)
Metropolitan Museum of Art – New York City (USA) – © Adagp, Paris 2011

2011年3月18日
011春夏 プレタポルテ コレクション 広告キャンペーンの制作
ココ シャネル
2011年7月13日
COCO AND PLACE VENDÔME
「シャネルとヴァンドーム広場には、とても深いつながりがあります。マ ドモアゼル シャネルはホテル リッツで暮らしていましたし、ファインジュエリーのブティックもオープンしました。ここはパリのなかでも特にパリらしい場所で、マドモアゼルがヴァンドー ム広場で撮った写真も数多く残っています。リッツの神話は今もリッツとともにあり、ヴァンドーム広場もまたその一部なのです」カール ラガーフェルドはこう語ります。
1920年以降、マドモアゼル シャネルは「居を構える」ことを拒んでリッツを定宿にしていましたが、1937年以降は、リッツの4階のスイートルームを住居として晩年を過ごしました。
ヴァンドーム広場は、彼女に数々のインスピレーションをもたらしました。初めて発表した香水「N°5」の8角形のボトルストッパーは、ヴァンドーム広場のフォルムを想起させます。その後、発表されたウォッチ「プルミエール」もまた、この広場の美しい形をかたどっています。
現在、マドモアゼル シャネルが過ごしたリッツのスイートルームの対面、ヴァンドーム広場18番地に構えているのは、1997年にオープンしたシャネルのファインジュエリー ブティックです。
写真: 1937年―ホテル リッツ パリにて、スイートルームのバルコニーに佇むガブリエル![]() |
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シャネルは1924年に模造宝石をつかったビジュ・ファンデジの発表後、1932年本物のダイヤモンドを使ったハイ・ジュエリーラインを発表しており、1939年に店舗を閉鎖した際も、アクセサリーラインを扱う店舗は残していた。
1990年代後半に、新たなデザイナーを迎えファインジュエリーの販売を開始した
ミューズ
シャネルではデザイナーのイメージを具現化し世間に広めるイメージモデルをミューズ(女神)と呼ぶことがある[要出典]。ミューズは、商品ごとのイメージモデルとは違い、ブランド自体のイメージモデルである。1980年代にはイネス・ド・ラ・フレサンジュ、1990年代にはクラウディア・シファー、ステラ・テナント、デヴォン青木らであった[要出典]。現在[いつ?]のミューズは、再びクラウディア・シファーとなっている
日本におけるシャネル
1994年、シャネルブティック本店(銀座並木通り)を開店。次いで1996年に大阪・心斎橋店を開店。心斎橋店が日本において当時最大の店舗であったが、2001年に東京・表参道店が開店し、こちらが日本最大となった。2004年12月には、銀座3丁目に旗艦店となる銀座シャネルビルがオープンした。
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シャネル (Chanel)は、ココ・シャネルが興したファッションブランド、および同ブランドを展開する企業である。レディース商品を中心に展開しており、服飾・化粧品・香水・宝飾品と展開分野は幅広い。
ウーマンリブ的な「古い価値観にとらわれない女性像」がブランドポリシー。喪服用途であった黒い服を「リトル・ブラック・ドレス」として広汎的に広め、また自立した働く女性のためのジャージ素材、ツイード素材のスーツを打ち出すなどファッションの歴史を次々と刷新していった。
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[ 歴史 ]
1910年、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店したのが始まり。 1913年、リゾート地ドーヴィルに第1号のモードブティックを開店。続いて1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンして、ココはオートクチュールのデザイナーとして本格的にデビューする。
1916年に第1回シャネル・オートクチュール・コレクションを発表。安くシンプルで着心地がよく、無駄のない、ジャージ素材を取り入れたドレスが話題となる。
1921年、本店をカンボン通り31番地に移転。調香師のエルネスト・ボーにより、シャネル初の香水「No.5」を同年の5月5日に発売。数字の「5」に縁起を担いで発売をこの日にしたと言われている[要出典]。脂肪族アルデヒドを大胆に使用した香調で話題となる。「No.5」は試作品番号。
1939年、第二次世界大戦の勃発とともに、香水とアクセサリーのブティック以外の全店を閉鎖。ココがナチス・ドイツによるフランス占領中を通じドイツ軍将校と愛人関係にあったため、1944年の連合国軍によるフランス解放とともにスイスへの逃亡を余儀なくされる。
戦後、1954年になって閉鎖店舗が復活。カンボン通りの店を再開し、オートクチュール・コレクションも復活させる。
1970年、香水「No.19」を発表するが、翌1971年、住居としていたオテル・リッツで、ココが死去。その後、カール・ラガーフェルドがデザイナーに就任。ココのスタイルを守りながら、時代の空気を取り入れた新しいシャネルを提案し、ブランドとしての再興を果たす。
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